コンモドゥスはマルクス・アウレリウス帝と小ファウスティナ妃の息子であり、アントニヌス朝の後継者として幼い時から英才教育を受けて育ちました。しかし名君の誉れ高かった祖父や父と異なり、コンモドゥスは武芸や豪奢を好みました。180年3月に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、父帝時代の側近の補佐によって統治を行いましたが、やがて奸臣を侍らせるようになり、怠惰かつ放埓な性質を助長させました。
コインに表現されたコンモドゥス帝の肖像は父親であるマルクス・アウレリウス帝とよく似ていますが、その性質や趣向は正反対でした。
コンモドゥス帝は姉ルキラや皇妃クリスピナ、さらに数多くの元老院議員たちを叛逆の疑いによって排除し、政治は寵臣たちに任せて自身は放蕩に明け暮れるようになりました。さらに自らを「ローマのヘラクレス」と称し、皇帝自身がヘラクレスの仮装をして闘技場に現れ、剣闘士試合や猛獣狩りを披露することもありました。
剣闘士たちを従えて闘技場に入場するコンモドゥス帝 (エドウィン・ブラッシュフィールド, 1878)
お追従たちに囲まれたコンモドゥス帝の誇大妄想と自己顕示欲は止まることを知らず、首都のローマを「コロニア・コンモディアナ(=コンモドゥス市)」と改称した上、元老院や軍団名、全ローマ市民の家名から暦の月日に至るまで、自らの名を冠するよう命じました。
宮殿でのコンモドゥス帝は数多の美女と美少年たち、そして自身を賞賛する寵臣に囲まれていました。日中は剣闘士のように武芸の稽古を行い、夜は美食美酒に明け暮れた生活を送りました。一方で自分に反対する者、その生活と地位を脅かしそうな有徳な人々を次々と処刑・失脚させていきました。
192年12月、自分たちの命が危ういとみた愛人と近衛隊長官、護衛の剣闘士らの共謀により、コンモドゥス帝の暗殺計画が実行されます。側近たちに裏切られたコンモドゥス帝は毒を盛られ、自慢の腕力で抵抗できないうちに絞め殺されました。元老院は暴君の壮絶な最期に歓喜し、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹消)を宣言。国中に数多く建立されていたコンモドゥス像は破壊され、ローマや暦の名も直ちに元に戻されました。